「将来の為」は誰の願い?

前回から書いているのは、保護者として感じたことではなく、昔、学校側にいた時に見てきたこと・感じたことで…

10年以上前のことなので、今とは違う部分も多々あると思う。

来年、自分の息子が入学したらまた学校に対する見え方や感じ方は変わってくるのかもしれない。

でも、今私の中にあるものは、それはそれできっとこの先も自分の中に在り続けるだろう思う。

 

「将来の為」という言葉に思うこと

私は大学を卒業してすぐの年、特別支援学校で勤務することになり、小1の担任になった。

そのクラスの児童は全員、自閉症のお子さんだった。

全く同じ診断名があっても、当たり前だが個性は一人ひとり全然違った。好きなことも嫌いなことも。得意なことも苦手なことも。

“自閉症”なんてものものしい名前とは裏腹に、、なんだみんなただのコドモじゃん、と思った。

まだまだ小さな1年生。本当にかわいくて、面白くて、大好きな子どもたちだった。

 

でも、その子たちに何かを「してもらおう」とすると、とても大変で。

毎日の、ごく当たり前の日常の、食事や着替えや散歩といった事の一つ一つが、大人が(時には数人で)全力で向き合ってやっと無事にできるといった感じ。

私はこのクラスの担任だった間、子ども達に危険が及ばないように常に気を張っておらねばならず、

あの手この手を試行錯誤で、分刻み秒刻みで、考え計画し、

また、子どもたちがやる気になる一瞬のタイミングを見逃すまいと常に神経を張り巡らせていた。

命を預かることの重すぎるプレッシャーを感じていた毎日。

いつも息を切らせていた気がする。子どもたちのいる間、椅子に座った覚えはない。

ご両親は、おうちでどれだけ大変なのだろう…と想像した。

 

そのクラスに、靴下が苦手なお子さんがいらっしゃった。

自閉症のお子さんは感覚過敏があることがあって、靴下を履きたがらないお子さんは少なくない。

 

どういう経緯だったか、クラス担任の話し合い(複数担任制)で、朝の会の時間だけはその子は靴下を履いて参加しようということになった。

私は新卒だったし右も左もわからず、最初は他の先生たちの言う事はすべて正しいと疑わなかった。

何か疑問を感じることがあっても、それはきっと私が間違っているのだと思いこんでた。

でも、実際にその場面に対峙すると、耐えられないレベルの違和感があった。

 

朝の会の始まる前、先生たちはその子に「靴下を履きます。」と声かけをし、靴下をその子に渡し、履くことを促した。

でも、その子は履きたくないと怒った表情で訴えてくる。(言葉のないお子さんだった)

朝の会は定刻に始めるが、その子は履けるまで担当教員と一緒に教室の後ろの方でにらめっこ。履けるまで席につけない。

その子は朝の会が始まる合図(ピアノ伴奏)で素早く席に着く事も多かったのに、そこは褒めてもらえず、、わざわざまた教室の後ろに行って靴下を履かなきゃならないなんて。。

 

その子の担当になった日は、私も同じようにそういった指導をしなければならない流れなのだが…、正直ものすごく抵抗があった。

何度かは私も他の先生方の意向に従ったが、、どうしても納得がいかなかったので、ある日クラス担任のA先生に疑問をぶつけた。

「靴下って…そんなに履かないといけないんですか?」みたいな、我ながらぶしつけな質問をした気がする。

A先生は、一瞬間を置いて、少しイライラしているような口調、厳しい表情で私にこう言った。

「〇〇先生(私)は、この子が将来靴下を履けなくて困ってもいいんですか?」って。

 

将来…? 靴下を履けなくて…困る??

 

A先生がどういう状況のことを言っているのかわからなかったけど、

私は自分に常識がない事を自覚していたので、もしかしたら私が知らないだけで、大人になって靴下が履けなくなって困るという状況があるのかもしれない、と色々考えを巡らせてみた。

靴下を履かないと霜焼けになるとか?  靴が臭くなるとか?

それとも、靴下を履いていないことで何か社会的に不利になることがあるのだろうか?

あるいは、靴下を履くことができないなら、あれもできないだろう、これもできないだろう、というもっと広い範囲の話?

いまだに、A先生がどんな状況のことを言っていたのかわからない。

 

そして引っかかったのはそこだけじゃない。

「将来」という言葉だ。

 

将来の為って、誰の為?

ってことなんだ。

その子自身の願い? 保護者の意向?

 

その子は、、将来のことなんて考えていないのでは?

多分その子には今しかないんじゃないだろうか。私は子どもの頃そうだったよ。

将来の為に今、我慢して靴下を履こう!  なんて、、本人は思ってるかな?

親御さんだって、そんなこと本当に願っているのかな?

仮に将来、靴下を履けなくて困ることがあるとして、そのショウライとやらの為に、今を犠牲にしていい理由はあるのだろうか?

今の気持ちや感覚を大事にできないで、未来のそれを大事にできるのだろうか?

 

子どもの今は、裸足で気持ちよく朝の会に参加したっていいんじゃないだろうか。

その子はクラスの中でも情緒的にとても不安定な子だった。

靴下を履くことなんかより、安心してリラックスして1日過ごせることが、その子の今には大事なことなんじゃないだろうか。そしてそれがその子自身の願いだったんじゃないだろうか?

 

でも、、その頃の私は自分の中のモヤモヤした気持ちを言葉にできなくて、もちろんA先生にも言えなくて…結局、何も行動を起こせなかったことを、今でもとても後悔している。

 

ただひとつわかったことは、

「将来のため」という言葉で、その子の「今の気持ち」には蓋をできちゃうんだ、、

そして全部、正当化できちゃうんだ、、という悲しい事実。

 

なんなんだ「ショウライノタメ」ってさ。

それは誰が主体なんだよ、、。

ショウライって、本人の願いなくしては語れないものなんじゃないだろうか。

たとえ、どんなに小さな子どもでも、重い障害があっても。

「将来」は、その子自身によって語られる(言葉によらなくても)ものであって欲しいし、

他人が決めたり押し付けたりするものではないと思う。

 

A先生だって、きっとその子を思ってのことだったんだろうとは思う。A先生にも信念があった。

靴下を履かせるなんて本当はやりたくなかったけど、心を鬼にして接していたんじゃないだろうか? それが正しいと信じて。主体なき「ショウライ」の為に。

 

多分、今の時代だったら、感覚過敏のある子に靴下を履くのを強要するなんて、倫理的にしちゃいけないって認識になってるんじゃないかな。

でもまだあの頃は、特別支援学校の教員でさえ、認識が薄かったんだ。

通常の学級にいるお子さんに対してだったら尚更だったろう。

 

いや、でもよくよく考えると、問題はもっと根本的なところにあるかもしれない。

どんな目標の為であれ、子どもから安心は奪えない。 そもそも安心を脅かすような目標設定はできない。

障害のあるなしに関係なく。

 

私は自分が不安だらけの子供時代を過ごしたから余計に思うのかもしれない。

生きていても大丈夫。ここにいても大丈夫。

その安心のなかで子どもたちには毎日を過ごしてほしい。

 

ただ、すべての先生たちがA先生のような考えだったわけではなくて。

むしろあの頃も、支援学校全体の中ではA先生はどちらかと言えば少数派だったと思う。

それでも、どんなにベテランの先生であっても、他のクラスの事にはなかなか口を出せない雰囲気だったのだけど、、。変だよね、それも。

 

今でもあの時のことを、今日あった出来事のように思い出せるし、息子たちと暮らしていてふとした時にあの子の顔が頭をよぎることがある。

あの子は今何をしているだろう? と考えてみたりする。

 

私がよかれと思って息子にしていることの、どれだけが本当に、息子のためなのか。

きっとこれからも私は何度も間違うことがあるのだろうけど、、

息子たちの今の感覚や安心を大事にしたいし、息子たちの日々の思いを見失わないよう、時々立ち止まることは忘れたくないと思う。

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