特別支援教育と‟通常の教育”との分断について。

運動会が終わって少し落ち着いたところで、いきなり堅い話。

 

というのも、いつだったか教員時代の話を書くと言ったのに、全く書けてなくて。

何か書こうと思えば、前置きしたいことが色々あったり、誤解のないように言葉を選ばなければならなかったりするのだが、、、

私には無限にブログを書く時間がある訳ではないので、多少乱暴な言い方のまま投稿することになるし、あちこちに話が飛ぶので読みづらいかもしれないけど、

とりあえず何か最初の突破口が欲しくて、勢いでこれを書き始めてる。

 

いきなり余談が長くなるけど、

高校生の頃、国語と英語の偏差値が70半ばだったのは、数少ない私の自慢。

読解や、文章を書くことは得意。小論文模試だって上位をキープしてた。

なのに、、私は話し言葉では適切に助詞が使えない

これはおそらく特性(凸凹)の部分で、、このブログは話し言葉に近いが、投稿する前に推敲するから大丈夫(なはず…でも時々おかしいと思う)だけど、普段の会話ではかなりつっかえてしまう。

常体<だ・である調>と敬体<です・ます調>も、このブログでは記事によって使い分けて書いているが、

どちらかに統一したほうがいい(と一般的に言われてる)ことくらいわかっている。でもできない。

言葉がスムーズに出てきてくれないことも多い。

常体・敬体ごちゃまぜなのは必然というか、私なりに言葉を繰り出すために試行錯誤をしている結果なので、読みづらいかもしれないけど、どうかご容赦願いたい、と思いながらいつも書いている。

(一応、前書き・後書き・( )内・小文字は敬体にすることが多いというゆるーい法則はあるつもりです。)

 

前置きが長くてすみません。本題へ。。

私は以前、教員として特別支援学校と通常の小学校に勤めていたことがあるのだが、

最初が特別支援だったからか、その後、通常の小学校へ移った時のギャップが大きかったことを覚えている。

今回は私が感じたギャップ、特別支援教育と”そうでない教育”の相違点と、私の考えを書きたいと思う。

 

ちなみに私は、今振り返ってもどうしようもない教師だったと思う。。。だから辞めたこと一切後悔してない。

 

私が感じた、特別支援教育と‟通常の学校(学級)での教育”との相違点

特別支援教育に感じたこと

まず最初に、特別支援教育の定義を確認しておくと…。

「特別支援教育」とは、障害のある幼児児童生徒自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め生活や学習上の困難改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うものです。

出典:文部科学省

私が特別支援教育に携わったのはほんのわずかな期間だけど、私なりに特別支援教育では通常の学校(学級)での教育に比べて「これが大事にされている!」と感じた部分を赤字にしてみた。

 

特別支援教育が「主体的」で「一人一人の教育的ニーズ」を重視していると感じるのは、

児童生徒自身の興味のあること、意欲を持てること等を基に目標を設定したり教育内容・単元や活動を考えていくという部分。

クラスで行う全体的な活動や単元は同じでも、目標設定はそれぞれにある

それは、抱える困難も興味関心も、目指す未来も、一人一人違うから。

 

特別支援教育では「個別の教育支援計画」というものが作成される。

それも、一人一人の教育的ニーズが異なることを前提にして、その上で持てる力を高めることや、苦手や困難を改善・克服することに繋げていく、という考え方に立っている。

 

通常の学校(学級)での教育に感じたこと

対して通常の学校(学級)での教育はというと。

私が感じたのは、特別支援教育とは正反対だということ。

つまり、乱暴な言い方をすれば、

全員同じ教育的ニーズがあることが前提受動的な取り組みをさせる」教育。

当然だが文科省はそんなこと言ってないし法令にもそんな記述はない。

学校の先生たちもそんなこと思ってない(と思う)。

でも、実態としてはかなり近いものがある、と私はいつも感じてた。

(一番最後に学校とかかわったのは2年前ですが、その時点でもそう感じました。)

 

最近ではアクティブ・ラーニングが教育のトレンドのようだが、、

現状の学校というものが、それを行えるシステムになっていないことは明らかだ。

 

もちろん、教科学習においては一定の成果は求められるだろう。

義務教育の後にも、受験など控えているし、その後も思考の礎となるものだったりする。

ならば、教科ごとの飛び級・留年をありにすればいいのに。

全員生まれた年で横並び、は無理があって当然だと思う。

 

特別なのは、すべての子どもたちのはず

特別支援教育と通常の教育、両者を見てきた私としては、

こんなに、、二者択一というか、分断されている事に違和感を持たずにはいられない。

 

「分断」というのは、特別支援と通常の学校(学級)で、学ぶ場所が分けられているという意味ではなくて、

その二つの教育の姿勢があまりにも乖離しているという意味。

もっとはっきり言えば、障害(診断)が ある/ない で教育的対応が極端に変わることが納得いかない。

(追記)

言葉が足りなかったので補足。

特別支援は、子ども自身や保護者の願いを基に方向性や目標を考える教育であるのに対し、

通常の学校では、最初から決められた事をこなすことに重点がおかれている。

私が違和感を覚えるのは、その二つのギャップ・振れ幅が大き過ぎやしないか? ということ。

障害のあるなしで、こんなにも隔たりがあるのは…極端過ぎない? と感じる。

(かと言って私は別に特別支援学校/学級を絶賛しているわけではない。そこにも、良いことも悪いことも色々感じてる。でも話が長くなりそうなのでまた別の機会に。)

 

オーダーメイドの教育や支援が・柔軟な対応が必要なのは、何も障害のある子どもだけじゃない。

従来の特別支援教育の対象ではない、通常の学校の教室にいる子どもたちだって

一人一人違うし、困難を抱えている子どもたちはたくさんいる。

願いも、興味関心も、得意なこともみんなそれぞれに違う。

画一的な教育じゃ対応できなくて当たり前。

ただ、ある程度の枠を作っておかないと、人的資源が無限にある訳ではないので対応に限界が生じる為、便宜上、ある程度の画一性を持たせるのは一つの方法なのだろうと思う。

でも、そのことに甘えて「一人一人違う」という前提を忘れないで、と思う。

 

発達障害はグラデーションと言われる。

自閉症だけじゃなく、発達障害全体がスペクトラムだと指摘する専門家もいる。

言い換えれば、

障害があろうがなかろうが、診断があろうがなかろうが、、全員特別な子どもたち

ならば教育もグラデーションであるべきだと思う。

 

「あの子は障害(診断)があるからできなくてもしょうがない。適当にやらせよう。」

逆に、

「あの子は障害(診断)がないんだからできるはずだ。怠けてる。」

このような分断が、表立ってはなくてもひっそりと、あるいは明け透けに、存在しているのではないだろうか。

 

何かが苦手だったり困難だったりする子たちがいたら、

その子たちに障害や診断というものなくても、それは一人一人教育的ニーズが違うということで対応していけないだろうか。

(先生個人レベルでは、柔軟な対応をしている先生もいらっしゃるけれど、、。)

 

だから本当は、学校側に診断を伝えなくても、発達/知能検査の結果を渡さなくても(検査結果を適切に取り扱える専門性を持った人が学校側にいるならば別ですが…はっきり言ってしまえばそれは障害のある「証拠」としてしか取り扱われないことが多いのではないでしょうか?)

一人一人に合った対応ができる先生なら、学校だったら、大丈夫なはずなのにね…って思う。

もちろん、通常の学級で対応できることは人員的にも限られているし、制度的に難しいことはたくさんある。

 

そして、重度の障害を持つ子たちも知っているので、、一概に全てグラデーションだなんて言えないことはわかってる。

スペクトラムやニューロダイバーシティ(神経多様性)は、万能な概念ではない、とも思う。

そこは、軽はずみに言えないことだと感じてる。

個性だとか多様性で語ってしまうとかえって苦しくなる人々も存在する。

現状、どこかには社会的な分断が生じてしまう世の中だってことを認めないままの議論は、ただの綺麗ごとになってしまう。

(そうでない世の中になってほしいけど)

 

それでも、教師側の意識として、分断のない意識を持っていることが、少なからずその子へのつらい風当たりを弱める助けにはなるかもしれないと思う。

もっと、一人一人の違いを尊重してもらえたら、、と願う。

 

中央教育審議会の資料に、このような文言を見つけた。

人生を主体的に切り拓(ひら)くための学び

子供たち一人一人は、多様な可能性を持った存在であり、多様な教育ニーズを持っている。成熟社会において新たな価値を創造していくためには、一人一人が互いの異なる背景を尊重し、それぞれが多様な経験を重ねながら、様々な得意分野の能力を伸ばしていくことが、これまで以上に強く求められる。一方で、苦手な分野を克服しながら、社会で生きていくために必要となる力をバランスよく身に付けていくことも重要である。

出典:2.新しい学習指導要領等が目指す姿

なんだ、、もうその方向性で進んでるのね! と思わずツッコミを入れた。

でもこの、文科省や専門家たちが唱える理想の教育が、まだ現場にはないと感じる。

 

新しい学習指導要領はすでに公示されていて、2020年度から全面実施されることになっている。

あと2年後、何か変わるんだろうか? 変わる兆しは見えてくるのだろうか。

 

システムの全面改革が必要なのに、人員が圧倒的に足りないのでは?? という危惧。

文言だけ整えても何も変わらないと思う。

日本でも社会は少しずつ多様性を認める風潮になってきているのに、、学校が変わるまでにはまだまだ時間がかかりそうだと感じてる。

学校をドロップアウトした私が、偉そうに言える義理ではないけれど。

2 Comments

ウル

mikanzukiさん、こんにちは。

特別支援教育と通常の教育でここまで違いがあるとは思いませんでした。
今の調子で行けば、うちはたぶん支援級の方に行くかなぁって考えています。
だから、この記事を読んで、ますます通常学級のハードルが高く感じました。

言われてみれば、学生時代はそうだったなぁって思い出したといいますか、出来るのが当たり前であって、目標に達することが出来ないと出来ない子認定されてしまうっていう。。。
いや、学校だけじゃなくてすでに息子の幼稚園でも感じました。(転園前の幼稚園)
皆のレベルっていうのがあって、それが基盤になっているんです。
まぁ、その皆のレベルに達することが出来ない&園が対処できなかったから転園になったんですけど。。。

1人で大勢を見るのは大変だし、仕方ないことだとは思うんですけれど、1人1人の個性を大切にしてくれる環境であってほしいなと思ってしまいます。
どうにかいい方向へ現場が変わっていってほしいですね。

そして、話し言葉(リアルでの会話)と文章での違い、すっごいわかります。
私もそうなんですよ。リアルでの会話は苦手なんですが、文章だと表現しやすいんですよね。
(そして、受け入れるのもリアルの会話より文章の方が入りやすい)
先日のパジャマの件といい、共通点が多くて勝手に親近感が湧いてます(笑)

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mikanzuki

ウルさん、こんにちは。コメントありがとうございます!
すみません、実はこの話題、まだ書きかけで、、あと3記事くらい続きを書いてそのなかでもう少し思ったことを書き足していきたいと思っています。この記事だけだと言葉が足らず、通常学級へのハードルが高く感じられてしまいますよね。ごめんなさい>_<
私は、通常学級も支援学級も結局は人(担任)によると思ってるんです。どちらの学級にしろ、一人一人を見てくれる先生かどうかという所が大きい気がしています。
ウルさんのおっしゃるように、通常学級って「出来るのが当たり前であって、目標に達することが出来ないと出来ない子認定されてしまう」部分がありますよね。勝手に目標決められて、できないと評価してもらえないっていう、、。でも、ちゃんと一人一人の頑張りとかよさを見つけてくれる先生にもたくさん出会ってきました。そして、そういった担任の受け持つ学級(通常学級)ならやっていけたり、むしろそちらで伸びるお子さんもいらっしゃるように感じます。
一方で、本当に皆同じにできないとダメっていう方針の先生もいますし。感覚過敏や多動などでご本人が辛さを抱えているお子さんは、少人数の支援学級のほうが生き生きとして学校生活を送れる場合もあると思いますし。なかには支援学級にも籍を置いているけれど、ほとんどの時間は通常学級で過ごし、疲れた時とか休み時間にだけ支援学級に行く、という息抜き的な場所に支援級を位置付けているお子さんもいらっしゃいました。お子さんによって、何が合うかは本当に色々だなと。通常学級か支援学級か、、っていう二者択一的なものではなくて、もっと違う方法が合うお子さんもいらしゃるのかなと感じます。

記事に書いたように特別支援と通常の教育で隔たりはかなり感じます。でも現状のなかでも、柔軟に対応していける道はあるんだと思います。(でもやっぱりそれも先生によるかと!)
うちの長男も、どちらが合っているのか、、今の段階ではわかりません。通常級予定なので、入学してから色々大変なことあるかもなとも思うし、案外楽しく通えるかもとも思うし、、。あと半年後、どうなってるんだろう~!? 悩みますよね。。
年中さんは、まだまだこれからの1年半でできることが増えていかれると思いますし、支援級でも、通常級でも、息子さんに合う学級&先生に出会えるといいですね。

ウルさんも文章のほうが表現しやすいんですね。 受け入れるのも文章のほうが入りやすいという所も私も同じです!
パジャマ派もそうですし、他にももしかしたら共通点が色々あるかもしれないですね!私も親近感湧いてます^^

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