客観と主観。

もう先に結論から書くけれど、

私が大事にしたいのは個人の主観であり、今(現在)の自分であり今のあなただということ。

 

しかし(特に義務教育の)学校というものに私が感じるのは、学校は客観性将来の自分やあなたをこの上なく重んじる場所だということ。

辞めてからもう8年近くが経とうとしているが、おそらく今もさほど変わりはないのだろう。

時々、昔に思いを馳せるのだが、どこか海外の国であれ、日本であれ、

最初に学校というものが設立された時から、こうなのだろうか?

 

「将来の為」は誰の願いかについては前回書いたので、今回は主観・客観について書く。

 

「主観を大事にしたい」なんて書くと独りよがりとか、自己中心的とも聞こえるかもしれないが、

私が大事にしたいのはそれぞれの主観だ。

己の主観も大事にしたいし、自分以外の人々の主観も大事にしたい。

 

でも、客観はほんの少しだけあれば十分。

ありすぎると、運転席に誰も載せないまま暴走を始める乗り物みたいになる

だって、「客って誰よ??」って話。

私が想像するのは、無人のパトロールカー。

おかしなところはないか? って、街をパトロールしてる。

学校ではよくその乗り物を見かけた。

それは誰でもない。誰でもないくせに、「有無を言わせないぞ」って威張ってる。

 

客観は大事だ。社会生活を送る上で欠かせない。

でも誰も、客らの気持ちは本当にはわからない。という事は肝に銘じたいと思う。

あくまで、主観あっての客観だという事を。

 

客観が大きくなりすぎると、その人自身の感じ方や考え方を押しつぶしてしまうようになる気がする。

客観ばかり大きかった頃の私は、ある日突然、自分の足もとがわずか直径50センチの円の面積ほどしかないことに気づいて愕然とした。

私が頼っていた大部分は、大地ではなく雲だったのである。雲の上は歩けないので、そのわずかな大地の上をせせこましく歩き回るしかできなくて、大変な不便を感じたのである。

 

なんだか例え話ばかりしてしまって誰にも何も伝わってないかもしれないのでもっと具体的に書く。

 

私が抱いた学校という場所の印象は、

児童生徒としても教師としても、たいして変わらない。

他人からどう見られるかという評価が第一で、

行動がそのシャカイに馴染むかという客観性をどこまでも大事にする場所だった。

 

私は、主語がいつも気になってしまう。

誰が? ということ。その物語の主人公は誰なのか。

でも、評価も客観も、主語は“自分”じゃない。

物語に自分は存在せず、“自分”はただの一読者。

 

他人が評価する。

他人から見てどうか。

その基準に合うように自分を擦り合わせていく作業の繰り返し。

 

その“他人”は、教師だったり、クラスメイトだったり、先ほどの無人パトロールカーだったりする。

 

テストでそこそこの点が取れるか。

積極的に発言できるか。

静かに人の話が聞けるか。

宿題は提出できるか。

忘れ物はないか。

時間内に給食を食べ終えられるか。

大きな声で挨拶ができるか。

友達と仲良くできるか。そもそも友達がいるのか。

協調性はあるか。

他人に迷惑をかけないか。

思いやりのある行動がとれるか。(「思いやりがあるか」じゃない)

 

将来、社会で自立した大人である為には、これらは必要なスキルなんだと思う。

ただ、「そこに自分(主語)はいるのか?」ということを、子ども時代にこそ考えてほしい。

結局、体裁だけ整えてもただの張りぼてなんだ。大人の世界には持っていけない。

でも学校は、教師らは、早急に体裁を整えろと言う。張りぼてでもいいから作っとけと言う。

 

私は、張りぼてなんて作らなくていいから、上質な材料のかけらを見つけたら、10年後、20年後の世界までずっと持っていけるように、大事に持っておいたほうがいいよ。と思う。張りぼてなんかに使っちゃもったいない。

 

(ああまたたとえ話になっちゃってる。でもまあいいや。)

 

先ほどの、わずかな大地に焦った私の話に戻る。

主観を大事にして、主観を広げることは、その大地を広げること。

大地を広げれば、時々自分以外の人を招いておもてなしもできるし、

畑を耕して作物を育てることもできる。家を建てたっていい。

好きな花木を植えて、気持ちの安らげる庭を造るのもいい。

そんな大切な大地の上に立っていると、誰かの造った大地(主観)も大切に思えるようになる。

 

 

西加奈子の『サラバ!』1)サラバ! 上 (小学館文庫)という小説をご存じだろうか。

そのなかにこんな言葉がある。

「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」

私は、‟信じるもの”を誰かの中に見つけて暮らしてきた結果、脆すぎる人間になってしまったから、

この言葉の意味がよくわかる。

 

 

私は自分の大切な人に物語の主人公であり続けてほしい。

主観の上に立っている、「あなた」を大事にしたい。

 

だから、学校に存在する無人パトロールカー=「客観」を恐れるのはほどほどに、ということを忘れないでと思う。

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