【就学に向けて】担任の先生との相性。

今週、就学支援シートを幼稚園から受け取ったので、少しずつ書いていこうと思います。

また、来週中には小学校へ入学届を提出しますし、来月には就学時健診も控えています。

いよいよ就学が近づいてきたなと感じています。

そしてこれからの園イベントでは、いろんなことが最後になるので毎回号泣でしょうね。。

 

就学が近づいてきて色々と考えることもあります。

そのなかでも一番気になるのは、担任の先生がどんな人になるか。

タイトルに書いたように、小学校生活の質を左右するのは、やはり担任の先生ではないでしょうか。

特に、長男のように発達特性を持っていると、担任の先生と合う・合わないという相性というのは特に重要だなと思うんです。

小学校では、担任の存在感というものが絶対的です。学級運営を含めほとんどの授業を一人の担任が受け持ちますから。。

以前の記事で‟学校の先生も以前よりは発達障害への理解が深まってきているのではないか”と書いたのですが、実際のところ、まだあまり期待はできないのかもしれないと思います。(教職に就いている友人や身内の話を聞くにつけ…)

おそらく、特別支援学級の担任でさえ、正確に理解していない人はいるのだろうなと思います。

支援学級だからって必ずしも発達障害に精通している方が担任になるとは限らないのだし。

というのも、特別支援学校や特別支援学級の先生になるのに、特別支援の免許は必須ではないという現実があります。(自治体により異なります)

 

なのでむしろ児童理解に熱心な通常学級の担任のほうが発達特性への理解があるということだってあり得るくらいです。

私の短い教員時代でも、支援学級(特に情緒)で学級崩壊したクラスをいくつも見てきました。

児童が不登校になってしまったクラス、保護者の方から「担任を変えてくれ」という要望があったクラス。

それは多分、教員側の無理解が招いた結果ではあるけど、そこに知識とか経験の有無はあまり関係ない気も実はしています。

極論だけど、結局はその人(担任)がどういう信念を持っていて、子どもに対してどういう向き合い方をしているかって事じゃないかと思う。

そもそも、お子さんひとりひとりの思いややり方を尊重する姿勢のある先生なら、発達にまつわる知識・経験の有無ってあってもなくてもそんなに変わらないんじゃないかとさえ思う。

そのくらい(専門ではないのに)理解のある先生もいました。

関係性がうまくいくかどうかは、専門知識や経験の有無によるのではなく、その先生の人となりによるところが大きいんじゃないかな…なんて感じたりしました。

 

児童と教師も、結局は個人と個人との関係だと思います。もちろん対等な。

特性のある子はとても敏感な子が多いので、人を見抜く力にものすごく長けています。

だからわかってしまう。

押し付けられてる、とか、ごまかされてる、とか、コントロールしようとされてる、とか。

 

もちろん知識や経験があったほうが、児童理解のための手掛かりをより多く持っているとか、経験上、具体的な支援方法を知っているという側面はあると思います。

でも、そもそも発達障害があろうがなかろうが、子どもはそれぞれに個性を持ち、一人一人感じ方や行動も違うわけで。

専門知識や経験の有無よりも、一人の人間として自分と向き合ってくれる人(先生)かどうかということのほうが、子どもにとってはずっと大きな事なのでは…と思います。

 

若手とかベテランとかはほとんど関係ない。

こういう時はこうしたらいい。っていう絶対的なセオリーなんて、育児にも教育にも存在しないから。

だとしたら、その場その場で考え続ける事しかできないのだから。(考えなくても抜群のセンスを持っている人が時々いるけど)

 

だから厄介なのは、発達特性のある子への支援を、マニュアル対応で考えている人。

発達特性について何かひどく誤解をしていたり決めつけている人。

そしてその誤解に気づかず、自分は知っている/わかっているからと、何も知ろうとしない/考えようとしない人。

 

子どもに寄り添うことを、甘やかすとか媚びると勘違いしている人はこう言う。

「そんなんじゃ将来困るでしょ」「あなたの為に私は言っているんだ」って。

それは違うんじゃないかな…と私は思います。

寄り添うことと甘やかすことは全然別物。

それから、特性のある子の場合、辛い経験や悲しい経験は記憶に残りやすいですフラッシュバックもあります。

だから、そもそも辛い叱られ方をされないということはとても大事。

 

これは親の私(長男と同じASDの診断有)の場合だけど、人の言葉や感情というものがダイレクトに自分の中に入ってくる気がする。そしてなかなか薄れたり消えたりしてくれない

以前、発達相談で心理士さんと話している時に「何気なく言う」がわからないという話題があったことをこのブログでも書いたのだけど、私もそう。

誰かが何気なく放った(であろう)一言が、いつまでもいつまでも同じ温度で自分の中に居座り続けるし、

相手の微妙な表情・声色の変化を、敏感に感じてしまいます。

特に、マイナスなことほど…。。

 

叱られると「叱られた」「自分を否定された」という事実しか残りません。

「なぜ叱られたのか」「どのような行動をとればよかったのか」は置いてけぼり。わからないままでした。

その後も「叱られない為の行動」をとることに躍起になって(それでもわからなくてまた叱られる訳ですが)、「自分の意志での行動」ができなくなっていってしまいます。

伝えたいことがある場合は、‟叱る”以外の方法をとったほうが、ちゃんと伝わりやすい。受け取ってもらいやすい。と思います。

 

勘のいい先生なら、診断があるとかないとか関係なく、

この子は多少きつく言ったほうがいいだろう、とか

この子には今はこういうふうに言ったほうが理解しやすいだろう、とか

ちゃんとそれぞれの児童の今の状態を見て叱り方(伝え方)も褒め方も変えています。

 

その子にとって辛い叱られ方をされた経験により、お子さんが一度担任に苦手意識を持ってしまったら、修復はかなり難しいような印象です。

先ほど書いたように、なかなか記憶が薄れないということもあるし、一度マイナスに落ち込んでしまった印象をプラスにしていくのは難しいです。

 

なかには、担任の先生の顔を見ることさえも辛くて学校に行けなくなるお子さんもいらっしゃいました。

そうなった時、子どもが不登校になるか、教師が休職するか、現状はその二者択一の方法しかないので、

「児童を不登校にさせるわけにはいかない」と休職することを選んだ先生も知っています。

そのくらい、担任の存在と学校への印象は結び付いています。

 

ちなみに、これは支援学級だけでなく、通常の学級の場合でも同じ。

たとえ成績やクラスでの人間関係が良好でも、担任と合わない・担任が嫌いという理由で教室に行けなくなる子はいます。

保健室登校、校長室登校、(これは学校によりますが)一時避難的に支援学級で学習する、空き教室で空きコマのある教員と学習する、、どれもお子さんにとってはストレスのかかる生活になります。

 

かといって、どんな先生が担任になるかという事は運次第。

だからそんなことここでグタグタ言っててもしょうがないですよね。。

でも、できることはあります。

 

教育委員会などによる就学指導を受けなくても、入学前に学校と面談をして、発達に心配があることを入学前に学校側に伝えておけば、クラス編成や学級担任のことで配慮してもらえる可能性は十分にあります。

特に、学級担任が最終決定するのは年度末ギリギリの3月後半なので。(自治体によって違うとは思います)

そして学校長には”すべての面談の記録をとる義務”があるので、就学前の面談の際に「いじめや不登校が心配だ」と具体的なワードを出して伝えておくと(記録に残るので)、担任のことも含め配慮してもらえるかもしれません。(私は言わなかったですが…。)

 

そしてこれは最近になって専門家から得た意見ですが、DQやIQが100を超えている場合は、発達検査/知能検査の結果を学校に提出することに慎重になったほうがいい、ということでした。

特に、特性的にもいわゆる“グレー”と呼ばれる状態な場合。

なぜなら、数字だけを見て「100超えてるのだから理解力は十分にあるのね」と学校側に受け取られがちだから。誤解を与えるから。

これは本当にそうなのかどうか私も半信半疑。結局は学校による、人(先生)によるのだろうと思います。

ただ、受け取る側(学校側)に、検査結果を教育に活かす器量があるのかどうか、きちんと見極めたうえで提出したほうがいいことは確か。

発達検査や知能検査の見方を正しく知っている人間が、学校側にそう多くいるとは思えません。

私も興味があってウェスクラー式の検査に関するセミナーならいくつか受けてきたのですが、、専門家でない人間が取り扱うにはあまりにも難しすぎる検査だと知りました。

だからこそ専門家が所見をわかりやすく書いて説明してくれているわけだけど。それでも数字が独り歩きする危うさは拭えません。

私は既に、何も考えず(というか手ぶらで小学校に行けず…)に提出してしまったので、そのことに関してはちょっと後悔しています。もっと信頼関係を作ってからでもよかったのでは? と。

 

 

先生との関係の難しさについて書こうとしたので、うまくいかない例ばかり書いてしまって不安をあおってしまったかもれませんが、

最後にちゃんと言っておきたいのは、私が出会ってきた先生方は優しくて面白くて理解のある、人として尊敬できる方が大半だったということです。

お子さんが生き生きと学校生活を送っている特別支援学級だって、たくさんありました。

 

児童や保護者とうまくいかなかった先生も、決して変な人ばかりじゃなかったんです。

同僚の私からみたら、すごく熱心で児童のことを思っている先生だったりもしました。

そこが学校で働く教師という仕事の難しさなんだと思います。。

 

日本の現状の、義務教育諸学校というものが、過度に協調性を要求される場所で、個の違いを歓迎してもらいにくい環境になっているところ。

そしてなぜか、その場にいる人間(子どもも、大人も)のほうが無理してその前時代的なシステムに合わせなきゃならないという、、

根本的な問題はそこかと思います。

社会ではある程度は多様性が認められる流れになってきているのに、学校という場所はまだまだ…何時代ですか? という、びっくりするような常識や慣習が蔓延っています。(私が最後に学校とかかわったのは2年前ですが、その時にも感じました。)

そして中にいる人々はその事に気づきにくい。

 

まとまらないまま長々と書いてしまいましたが、理解のある学校、理解のある先生と巡り合えることを祈るばかりです。

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